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2015年01月05日

平山・南平

日野歴史散歩 林丈太郎

記者名:山田

イベント種別:文化・芸術対象者:指定なし

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林丈太郎(はやしじょうたろう)は明治8年(1875)に平山村に生まれ、昭和2年(1927)52歳で亡くなった篤農家でした。
篤農家とは、熱心な農民が特定の作物について独自の栽培方法をあみだし、作物の増収を実現しようとした者をいいます。

当時の日本は、凶作が続き、お米や食料が不足していました。
丈太郎は、干ばつに強く、病虫害にも強く、食味もよく、たくさん収穫できる陸稲を20年以上かけて作り上げました。

※陸稲(おかぼ)とは畑で作るお米のことです。

それが近隣の農家に知れ渡り、当時豊田にあった府立農事試験場第一分場で改良され、「平山」と命名され、大日本農会や南多摩郡農会から表彰され、功績をたたえられたということです。

昭和2年に他界し、墓は平山の宗印寺(平山城址公園駅から徒歩5分)あり、昭和28年には墓碑が建てられました。墓碑には下記のようなことが書かれています。

「林丈太郎ここに眠る 品種改良家 陸稲「平山」を創む また平山の名を全国に広めたり 墓石はいとも小なり されどその功績はいとも大なり」

墓碑と同じくして、丈太郎と米どころ平山をたたえる「平山音頭」が発表されたそうです。
これについては今調査中です。
戦後は水田が拡張・整備され、お米の品種改良が進むと、陸稲は栽培されなくなりました。


話はこれで終わらず、2003年平山小学校が開校130周年を迎えたとき、時の校長先生が、この記念の年に「平山陸稲」を復活させたいということから、JA東京みなみの方々の尽力により、筑波の農業試験場で平山を発見し、復活に成功したとあります。
校長先生は、この平山陸稲の栽培を伝統として継承していきたいと誓っていました。

さて、今はどうなっているのでしょうか?

この平山陸稲については、今後取材を試みていくつもりでいます。

記者名:山田

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